探偵小説の本格的興味 −井上良夫

 ポオ以降、探偵小説が主として取扱って来ているものは謎とその論理的解決である。云い換えれば「犯罪を骨子とした謎の構成とその犯罪事件の探偵」に外ならない。即ち探偵小説の根本的な面白味は犯罪事件の構成とそれがデテクションとに在るわけである。だが、同じように犯罪とデテクションを取扱って本格的探偵小説と叫ばれてよいものでも、種々その面白味を異にしているもので、この小論で私は、探偵小説の持つ二様の本格的な面白味につき見解を記してみたいと思う。(甲賀三郎氏が折角「探偵小説講話」で述べていられる定義の明確さを損じることのないよう、一寸お断りしておきたいが、私のこの一文では、大体に於て、「犯罪とその解決」という、探偵小説としては根本的と思われる面白味が取扱われてあるものを長、短篇に係わらず「探偵小説」或は「本格(的)探偵小説」と呼ぶのであることを御承知おき願いたい)

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 探偵小説の持つ特珠な面白味には、先ず何よりも「論理的な面白味」が挙げられなければならないと思う。探偵小説の特珠な面白味には、ミステリイの面白味がある。不可解に出くわして生ずる興味である。これは探偵小説独特の、また欠くべからざる面白味の大きな部分に違いない。しかし探偵小説の場合では、怪談と違って、単にそれはミステリイとしてだけの面白味ではない。そのミステリイの背後には必ず論理的な解決が伴っているのである。つまり、探偵小説のミステリイの面白味は、それが必ず約束しているところの論理的な面白味に外ならないだろう。解決までを通じて非常にロジカルであるということが探偵小説の興味の根本を占めているものとみなければならない。
 が、先にも云ったように、探偵小説のこうした論理的な面白味も決して一色ではない。それは、大別して、探偵小説が取扱っている「犯罪構成」から来るものと、「探偵」の方から来るものと、まずこの二つに別け得られるかと思う。犯罪構成の方から来るそれは、つまり探偵小説のプロットそのものから我々が感じさせられる論理的な面白味で、これは甲賀氏が使っていられる言葉を借用して、ストーリイの探偵的興味、或は推理的面白味、とでも云うべきものであろう。もう一方のデテクション側から来るものは、主として作中探偵の推理の面白味であって、謂わばこれは論理そのもの、推理そのもの、の面白味である。探偵小説は主として犯罪の組立とこれがデテクションの面白味を同時に取扱っているものであるし、また探偵小説は作中探偵の推理部分だけで出来上るということはなく、探偵的興味を持ったストーリイというものは必ずなけれはならないものではあるが、しかしそれであるからと云って、如上の二つの面白味が一つ作品に共々充分に盛られているということは比較的少ないものである。多くの場合が一方のみの面白味に傾いているものであって、そこで同じように本格的探偵小説と云われていても、各作品の持つ興味が異っているし、作家の持味などが判然と別れて来るわけでもある。例えば、かのフレッチャーの作品の如きは、やはり謎とその解決を正面から取扱った本格作品であり、而も彼のものは他の多くの本格探偵小説と異って、謎の根本を作る犯罪が多くの場合計画的犯罪でなく、それでプロットの面白味は主として探偵経路の面白味にかかっているのであるが、それでありながら彼の作には解決の方には論理としての面白味などは極めて少なく、謎構成の方の面白味が遥かにこれに立勝っている。それが今度はポオの場合になると、これは犯罪構成より来る論理的進展の面白味、探偵的興味よりもむしろ、解決の側に見られる論理の面白味なのである。短篇だけに就いて云っても、エラリイ・クイーンのものはストーリイの探偵的興味、事件の推移の面白味であるが、ポーストになると推理自体の面白味の方が勝っている作品が多い。
 かように、大別して探偵小説の本格的な二様の面白さを記す前にこの二つの興味と密接な関係を持っていると思われる「探偵小説の難解味」に就き、先ず所見を述べておきたい。

探偵小説の難解味

 本格的な探偵小説では、概して、取扱われている謎が難しければ難しい程面白い。目の前で不可解が展開されると、探偵小説的興味は鋭く上昇し勝ちなものである。しかし、探偵小説は、ただ難しい謎が工夫して作ってあるばかりでは本当に面白くはないものだ。謎そのものはどれ程複雑であり解き難いものであっても、探偵小説独自の面白味としての難解味は出ないものである。私の読んで来たごく平凡な興味に終った探偵小説の中にはヴァン・ダインの「グリーン・マーダー・ケース」よりも難しい謎を取扱ったものは勿論幾つかあった。「ぷろふいる」誌上で紹介される新作家諸氏の本格物を読んでいると、江戸川氏や甲賀氏などが書く本格物よりももっと難しい謎を作り上げている作が沢山目につく。それで、謎が難解であるから面白いかというとそうでもなく、また探偵小説の難解味を感じることも尠ない。つまり、私のいう探偵小説の難解味と探偵小説の謎そのものの難解さとは、それ程緊密な係わりはないのである。それでは、この難解味とは、というと、私はこんな風に説明してみたい。それは問題そのものの難解複雑さでなしに、問題を解こうと思ってみる時に、読者が作品から受けるところの「難解感」に外ならない。この難解感は、先ず提出される謎の不可解さに始まって、作者が読者に投げかける解決への巧みな暗示や、或は、作者の一種暗示的難解な記述振りや、或はまた材料の巧妙な配列などからして生ずるもので、読者は作者の投げる暗示を捉え、データを取上げ、或は作者が故意に設けている間隙に気附き、或は作者の難解な記述を辿って、その暗示、間隙、記述といった、謂わば一種探偵小説的なヴェールの彼方に隠されているに違いない真意を汲み取ろうとして思考する、−と云っても何も実際に巻を措いて思考しなくてもよい、単にミステリイそのものに大いに興味を唆られることで充分なのであるが−その際、その読者の側の思考の進行がスラスラと平易に運ばれず、思索推測の径路にひっかかりが出来、ために感ずるととろの難解感が、私のいう探偵小説の難解味である。誇張を退けて簡単に云えば、先を考えてみたいという気が起るのだが、すぐに見通しがついて了《しま》うのでなく、先ず見えそうでいて案外に見えないような気持のする一種の「もどかしさ」の感じといってもよい。即ちこれは、決して謎そのものの難解複雑さの直接の所産ではない。(これを私は非常に探偵小説的な一種の「雰囲気」であると云いたい)複雑極まる謎を快刀乱麻式にスラスラと解いてみせる探偵小説には、この難解味を感じることはあまりないし、反対に、さして複雑でなく、むしろ平凡に近い程度の謎であっても、作者の心得た記述に逢えば、立所にして充分な難解味が滲み出て来るものである。これは後述するが、甲賀三郎氏の最近の作品は事件そのものは大変平易であるが、それでいて難解味は充分に感じられる。尚、この難解感は、作中に取り入れられてある「専門知識の難解さ」或は「文章そのものの難解さ」とも決して直接の係わりはないものである。例えば、そうした種類の難解さに富んでいる小栗虫太郎氏の作品に接しても私は必ずしも如上の難解味を感じることはない。
 探偵小説の難解味とは凡そかくの如き性質の感じを云いたいのであるが、それが本格探偵小説の興味とどうした係わりを持つべきものであるか、それに就いて後述することにする。

ストーリイ側の論理的興味

 そこで、本格探偵小説は主として犯罪事件を骨子とした謎の構成と、伏せられた解決に至るデテクションとを取扱ったものであるが、謎の構成は即ち根本プロットであるからして、この面白味に富んでいるものは多くが長篇探偵小説である。またデテクションの方は、謂わばこれは構成された犯罪の説明なのであるからして、犯罪の構成を必ず持っている探偵小説にはまた当然附き纏うべきものではある。(プロットは実際は犯罪と探偵とが共々に仕組まれているのだから)併しながら、プロットの論理的な面白味には必ず論理そのもの、推理そのものとして面白いデテクションの論理的な面白味が附随しているかと云えば、必ずしもそうとは云えない。例えば、デテクションの側に論理としての面白味が多いのは、プロットの複雑奔放さを制限されている短篇探偵小説である場合が多い。曾てチェスタトン氏が、探偵小説には短篇の形式がより適している、と云ったことがあるのは、この意味に於てもよく頷けると思う。つまり探偵小説の「論理的な推理の面白味」だけを主として味わうには短篇探偵小説で充分なのである。(チェスタトン氏の挙げている理由というのはまた別の点にあるのだが)
 そこで先ず、探偵小説の一半の面白味−一半としてよりも実はそれが主たる面白味であるのだが−それは、プロット横成より生ずる論理的面白味である。或は甲賀氏の言葉を借用して、「ストーリイの探偵的興味」と云った方が適切であろうか。つまり謎の面白さとその謎が論理的に解かれて行く(同時に自分でもそれを考えてみたいと思って行く)上の面白さとに外ならない。だからその面白味は、プロットが織出されて行くにつれて読者が感じる一種の難解感、若しくはサスペンスであり、或はプロットの論理的な進行より受けるところの快感などがそれである。これには論理的な解決が進められて行く以外に先ず充分なミステリイが盛られていること(即ち謎が面白いこと)と、そのミステリイの解決に対し読者の好奇心が大いに嗾《そそ》られること(つまりサスペンスに富んでいること)などが必要であろう。これがつまりは長篇探偵小説の主たる面白味であり、また探偵小説としてのストーリイの独特な面白味である。最も肝要なことは、ミステリイを持ったプロットが論理的に組立てられており、それが論理的な解決へ向って円滑に繰り展げられて行くことである。
 フレッチャー氏の長篇探偵小説にあっては、科学的な道具立てもなければ論理的な推理もなく、勿論満足な解決が行われてはいくものの、デテクションの側では物足りないものがあり、謂わば全篇が極く常識的である。にも拘らず、彼の探偵小説には、探偵小説独特の論理的な興味は相当に深く、探偵的興味に富んでいる。これはそのストーリイに先ず充分な不可解が盛られてあり、プロットの構成に隙がなく、且つ次から次への進展が極めてスムースに行われていて、読者に充分推理を促すものがあるからに外ならない。彼の作品の持味がそんな風であるからして、(文学的興味有無の観点は暫く離れ)探偵小説の興味中、いま一方のデテクションの側である論理の面白味、−多くが一種奇術的な感じのものであるが−をより愛好する人々には彼の作の傾向はあまり歓迎されないこともあるだろう。
 大体その手法に於てフレッチャーと傾向を同じくしているF・W・クロフツの作風を持って来てみると、クロフツの作は就中《なかんずく》論理的であって、一見、デテクションの側に重点があり、探偵の推理そのものに多くの興味がかけられているかのように思われる。しかしながら実際には、クロフツの作も亦犯罪構成の側の論理的面白味、ストーリイの探偵的興味に傑れているのである。彼の作品で顕著な面白味を持っている探偵経路は、実はその儘が犯罪経路の面白味であり、プロット全体の面白味なのである。成程、彼の作に於ては随所に探偵の推理が述べられ、それらはまた極めて論理的でもある。併しこうした探偵達の推理は、(多くの探偵小説の場合がそうなのではあるが)作者が組立てた根本プロットの重大な一部を受け持っているのであって、作者は読者をして探偵の推理を辿らせて行くうちの事件の推移をのみ込ませ−(というのはクロフツの場合では結局作者の罠に陥れるのであるが)−そうすることによって事件の輪節を面白く感じさせるのである。その意味よりすれば、かかる推理は謂わば作者が組立てた犯罪の説明に過ぎないのであり、推理自体がその作のプロットの論理的な構成を説明しているのである。つまり、クロフツの書く探偵の克明な推理は、そのままがプロット(或はトリック)の面白さになっているのであって、決してそれだけが独立しての論理的な面白味を提供しているのであるとは云い難い。後に挙げるポオやバーナビイ・ロスなどのものとその点大いに性質を異にしていると思う。
 次に、謎々探偵小説と云われているヴァン・ダインの作品も亦犯罪構成から生れる論理的な面白味のものである。例えば彼の「グリーン・マーダー・ケース」では、トリックの設けられてあるプロットつまり犯人が被害者の一人であるかに思わせて進められて行くプロットに主たる推理的面白味がかかっているのであって、勿論それには同時にヴァンス探偵側のデテクションが併わせ進められるのではあるが、むしろそれは読者に対しての推理的な面白味や全体の論理的興味を高めて行く役目の方が主であって、フイロ・ヴァンス自身の論理的推理というものは極めて少ないのである。終りの方に近く解決へのヒントたるべき事項がかれこれ百ヶ条に近く羅列される個所があるが、これも決して表面的にはヴァンスの推理の面白味でなく、読者の側の推理を促し、難解感を昂めて、プロットの論理的、推理的面白味を強調しているものに外ならない。(彼の作中論理そのものの面白味に富んでいるのは、「ベンスン」と「ビショップ」であろう)
 以上、探偵小説での主としてプロット構成の上に現われる面白味は、つまるところ探偵小説としての「事件の面白味」に外ならないことになるが、ここで前述した探偵小説の難解味を持って来ると、プロットの上にこの難解味が出されていなければ論理的面白味が感じられない場合が非常に多いのである。それがなくても面白い場合は勿論ありはするが、大体に於て本格的な探偵小説の特徴として、或る程度の読者の参加を考慮に入れての謎の解決を取扱うものであるからして、この難解味がつまるところは謎の面白味であり、ミステリイの魅力ともなるのである。従ってその作にかかる難解味がない場合、全体として面白味がなく、特にプロット構成の側に主として面白味をかけてある作品にあっては、読者に推理を促すカを欠き、論理的な面白味がなくなって、探偵小説としての興味を著しく低下させ、多くの失敗に終っているものである。若しも「グリーン・マーダー・ケース」に於て、作中にあれ程の難解味が横溢し、推理思考を促すものが欠けていたとしたなら、事件に何等華々しい変化もなく探偵自身の推理の面白味など極めて稀薄であるところのこの作品は徒らにテンポののろさが腹立たしいばかりであって、あの実際は駕嘆する程に魅力に富む数々の箇条書も読者にとってはただ馬耳東風の有様で、どれだけ奇抜なトリックが設けられてあったとて全篇何の面白味もないものに感じられたに違いないとさえ思われる。実に「グリーン・マーダー・ケース」にあっては、難解感こそが論理的興味の根源なのである。
 しかし、いまも云うように、例外たるべき傾向のものがあって、例えば甲賀三郎氏の初期の傑作「ニッケルの文鎮」の如きは、立沢な本格探偵小説であり、複雑な謎が実に緻密に組立てられてあって表面上は独立したデテクションの面白味も強いようであるが、実際はやはり構成の側に主たる興味のある作品である。しかしこの作には私の所謂《いわゆる》難解味は殆どない。複雑な謎は読者に思考を強いるひまもなくスラスラと解かれて行くのである。読者は唯語り手の女の話に耳を傾けて楽しんでさえおればよく、その間何を考えてみようという気も別に強くは起らない。而もこの作は充分に面白く、デテクションを離れての論理的な面白味が全篇を埋めている。(「琥珀のパイプ」なども大体に同傾向のものである)ところが、同じ作者の「誰が裁いたか」になると、「ニッケルの文鎮」に較べ謎はさして複雑でなく、プロットは少しも錯綜していない。そしてこれも亦論理的デテクションの興味はそれ程多く盛られてはいない。にも拘らず、この作は本格探偵小説として論理的魅力に富んでおり、非常に面白い。それは、この作品には探偵小説の難解味が実に自然に滲み出ているからだ。前の「ニッケルの文鎮」にはこの難解味は別に必要ではないのであるが、「誰が裁いたか」の場合では、探偵小説の難解味があの程度に出ていないと面白くはないものである。そこでこの二つの作品のこうした相違は何処から出ているかと云えば、「ニッケルの文鎮」は、全篇不可解の興味は強いし、論理的な説明が終りを告げるまで読者を引張って行くカに富んでいるのだが、しかしそれは別に「謎々」風な色彩があるのではなく、「挑戦」が含まれているのではない。だが「誰が裁いたか」になると、決して露骨ではなくても(それが甲賀氏の一特色であるが)謎々式な傾向があり、与えられた謎の魅力で読者を引張って行くのである。思考を強いるものがある意味ではやはり挑戦が暗黙の裡《うち》に盛られていると云ってもよいだろうと思う。全く、この作では、十年目毎に繰り返されるという奇怪な殺人の謎と、悠々たる山の神秘さとがよく融け合って解決を知るべく物語の最後まで読み通してみないではいられない魅力を覚えさせられる。最近の同氏の「黄鳥の嘆き」なども「誰が裁いたか」と同傾向のもので、二川家の秘密に就き読者に思考を促すものが最初から組立ての上に意図せられている。「誰が裁いたか」も「黄鳥の嘆き」も共にデテクションの側の論理的な面白味よりも組立ての側の(ストーリイとしての)論理的、探偵的な面白味に傑れている作である。甲賀氏の洗練された手法、つまりストーリイ全体の構成や、キイの配列、その間適当な省略によって作り出される間隙などが相俟って、大きな効果を挙げているのであるが、そうした氏の手法からは、成程氏の主張の如くスラスラと読み下される傍ら雰囲気的難解味が実に自然に滲み出ていて、論理的な興味を高め、作中に現われるデテクションとしての推理そのものは比較的平凡であるのに、読者はストーリイの全面に出ている難解感よりして彼の心中に論理的推理の面白味をさえ感じて来る。読者が知らず知らずの裡に間隙を補って楽しんで来るのである。作者の技巧の円熟振りは実にここに在ると思う。甲賀氏の最近の作は、概してストーリイ(謎)は益々シムプルになって来るのに、論理的な興味と難解味とは之に反比例して増して来ている。探偵小説のストーリイから来る快い難解感が必ずしも謎の複雑さと関連の無いことは甲賀氏の作に於て知られると思う。
 論理的構成に伴う難解味の有無は、更にヴァン・ダインとエラリイ・クイーンの二人の作の比較が適していようかと思う。クイーンの長篇物のプロットは概してヴァン・ダインのものよりも複雑であって、構成された謎は一段と難解である。しかし、プロットから受ける難解味はむしろヴァン・ダインの方に強い。クイーンの作には文字通りの「読者への挑戦」があるが、しかし読者をして挑戦に応じさせるカはヴァン・ダインの方がより多くを持っている。さればこそ同じように挑戦式本格物ではあっても、ヴァン・ダインの作品の方に一段大きな魅力を感じるのであろう。少なくともこうした傾向の探偵小説としての面白味に直接係わりを持って来るものは、この探偵小説としての難解感の濃淡に外ならないように思う。
 そこで、以上に記したところを要約すると、探偵小説の本格的興味の一つである主としてプロット構成より生ずる論理的面白味は、長篇に於てよりよく盛られているものであるが、その作品が若し挑戦的な、或は少なくとも謎の解決に読者の興味をかけさせる式の作品である場合には、読者に一種難解味が感じられるように仕向けられているのでなければ、如何に作者が挑戦を意図していようとも、或はどれ程不可解さが強調されていようとも、読者は挑戦を感じず不可解さに興味を起さず、作全体を極めて無味乾操な脱穀の如くに感じて了うことが多いものである、ということになる。本格探偵小説に於て、デテクションの側の論理の面白味が稀薄である場合、プロット構成の上にミステリイ解決への論理的興味、探偵的興味が充分与えられていなければ探偵小説としての固有の面白味は乏しくなり勝ちのものであるが、更にその作品が多少とも挑戦傾向のものである際には、このプロットよりの難解感は、探偵小説としての面白味の源泉となるものである。探偵小説として他の所要条件が相当程度に備わっている場合、後段に記すような推理そのものの面白味は仮令《たとえ》成功的でなくとも、ストーリイよりの難解感がよく出ているなら、その探偵小説は本格的な探偵小説として面白く読まれるものだ。難解感そのものがストーリイの推理的興味に外ならないからである。(探偵小説としての芸術的な魅力の多くもこの難解感に包含さるべきものであると思う。難解感を生むものは決して探偵小説的なテクニックばかりではない)
 尚、この部に属する探偵小説の多くは、作中人物は解決への推理を行い、読者も亦それについて行って楽しむ傍らでは、彼自身ストーリイの進展につれて多少ともに推理憶測を強いられるものではあるが、しかし作中人物は放れ業のような奇術的推理を行うことはない。(多く超人探偵は現われないのである)ストーリイ自体としても奇矯的な所がなく、どちらかといえば正常常識的、比較的軽い気分で読まれるよう大衆的傾向のものが多い。次に挙げるものと多少色彩を異にしている一つであろうと思う。

デテクション側の論理的興味

 探偵小説のいま一つの論理的興味は、根本プロットとは別に作中探偵が述べる論理も含めて(それらは大抵の場合「推理」ではない)犯罪解決の上の推理の面白味である。前のストーリイの探偵的興味と離して考えれば、これはその多くが探偵小説的な装飾部分であるといってもよいと思う。フイロ・ヴァンス探偵が随所で語る理窟っぽい話とか、「モルグ街の殺人」の冒頭に長々と記されている分析の話など、それらは悉く「推理」ではない。またクロフツの探偵達の場合のようなプロットの説明でもなく、必ずしもプロットと重大な関係を持っているというでもない。では全然無用の長物かというとフイロ・ヴァンス物もオーギュスト・デュパン物も、こうしたものが有るために大変面白くなっているのである。探偵小説の論理的な其飾であると思う。論理そのものに推理的興味も有るし、解決へのヒントたることも多いのであるからして、推理と共にデテクション側の論理的興味の中に入れておくも別に見当違いではないと考える。
 さて、犯罪解決の上の推理の面白味であるが、短篇探偵小説に就いて云うと、前述したストーリイの探偵的興味が比較的盛りにくいために、ここで取扱われる探偵小説としての面白味はより多くデテクションを行う推理の面白味であることが多い。ポオやドイルフリーマンやチェスタトンなどの短篇探偵小説が持つ興味の一半はこれである。探偵小説には、ミステリイの論理的な解決は必ずつきものなのであるからして、推理の面白味のない探偵小説というものは無いといってもよく、作中探偵自らが推理を行ったり、作者が投げる暗示に基いて読者自らが知らず知らず推理をめぐらせたりいずれにせよ、推理が楽しまれるのが探偵小説の一特色である。「探偵小説講話」に於ける甲賀三郎氏の所説の如く、推理的要素の多いことが何《な》んといっても(本格)探偵小説の特質に違いないと思う。
 しかしながら、考えてみると、論理そのものとしてそれ自体既に興味深い推理というもめは、案外に少ないものである。かかる推理は、フリーマンのソーンダイク博士物語にも少なければドイルのホームズ物にも少なく、推理ずくめであるかに見えるオルツィの「隅の老人」物語にも少ししか見出されない。私の知る限りでは、かかる種類の推理の興味に富んでいるもの、長短篇を通じ、鼻祖ポオの作物に及ぶものはないように考えられる。「モルグ街の殺人」や「マリイ・ロオゼ」や「盗まれた手紙」などに現われるオーギュスト・デュパンの推理観察は、プロットの説明役たる推理としてだけでなく、それ自体に充分論理としての面白味に富んでおり、探偵小説的な面白味を堪えているものが多い。特にデュパンを通して作者の語る論理は探偵小説としての彼の作の最大魅カである。(それらは必ずしも推理ではない)全篇さながら一大論文たる「マリイ・ロオゼ」は云うまでもない。「モルグ街」に於ては、冒頭の、分析的能力なるものが、数学に、チェスに、カルタに、夫々結びつけられて語られる条りや、或は歩きながら同伴者の心の動きを無言のうちに読み取って驚かさせたり、種々な状況証拠から論理を組立てて犯人の正体を人間以外のものに推理して行ったり、「盗まれた手紙」中、相手の智カの程度よりして手紙の隠し場所を推理して行く上の比喩を持った豊富な論拠など、或はまた「黄金虫」の主人公が暗号解読に示す論理などは、実に探偵小説的な深い魅力を湛えているものである。作者のこうした論理的な推理、装飾的論理の魅力は、彼の作の全般に濃い影を投げて、全く底深い、ユニークな興味を織出している。ポオの作に探偵小説として見るべきところ、学ぷべきところは、先ず以って如上の点ではあるまいかと考えられる。
 ポオに較べればドイルの作の推理は余程常識化していて、推理そのものとしては面白味が稀薄であり、決してその部分がポオ程に圧倒的でない。ドイルの短篇ではホームズの推理なり論理なりはそれ程作全体の興味に関係はしていない。しかしポオの場合では、デュパンの論理的推理は作の面白味の殆ど総てでさえある。(ドイルになるともう論理よりもプロット側の−即ちストーリイとしての−面白味をより加えて来ている)ソーンダイク博士の物語にはデテクションのための推理は多いが、しかし推理だけとしては探偵小説らしい論理的な面白味は比較的乏しい。ポーストの数多い短篇には甚だ鮮かな推理が沢山に取り入れられている。ポオの如き装飾的論理には欠けているが悉くがデテクション側の面白味の作品である。デテクションの論理的面白味に秀でている一つにフィルポッツの短篇「三人の死者」がある。これなどはよく探偵小説の解決側の論理的面白味の一種を深く掘り下げているものだと思う。
 長篇探偵小説に就いて云えば、性質上こうした独立的な論理、推理の面白味を多く盛り込んでいるものは僅少である。「推理の課題」とサブタイトルのうってあるクイーンの作品には探偵自身の推理は少ないし、(長篇では多少でも「推理の課題」の色彩を帯びて来ることが多いから短篇で見るような独立的な論理などはあまり必要でもないかもしれない)またヴァン・ダインの作品にも推理らしき推理は多く見当らないが、しかしこの方はクイーンに較べ装飾的な論理は非常に多い。一体探偵小説として面白く感じられる推理というものは、勿論それが論理的であることは第一に必要であるが、それ以外に、一種奇術的な突飛さ、華々しさを持っているか(後述)、或は比喩暗喩に富んだ、論理的であると同時に非常に暗示的であったり(フィルポッツやポオのものなど)、またはそれが人の性格心理に結びついた深みを持っているか(同上)、でなければ面白く感じられないものである。このうちの奇術的な推理であるが、大体本格探偵小説というもの自体が甚だ奇術的な色彩を持ったものであって、かかる奇術的な推理は就中本格探偵小説に相当《ふさわ》しい面白味のもののように考えられる。こうした奇術的推理の面白味をよく発揮している作家には、私の知っている範囲では外国にバーナビイ・ロスがあり、我国では江戸川乱歩氏がある。小栗虫太郎氏もこれに近い。(後の二者の場合は短篇作品が多いのであるが)
 バーナピイ・ロスの見せる推理は全く奇術的な華々しさに富んでいる。彼の作に現われる主人公ドルウリイ・レーンという老人の推理は、それ自体論理そのものの魅力である。彼の推理はクロフツ流の推理のように構成された犯罪の説明としての役を果たして行く以外に、独立した論理的興味に富んでいる。或る作でのドルウリイ・レーンは、ごく些細な手掛りよりして、不明の殺人犯人の身長を大体に於て見事に算出してみせる。而も彼はこれを全然異った二つの方法よりして論理的に推理証明してみるのであるが、それはヴァン・ダインが「ベンスン事件」でフイロ・ヴァンスに殺人現場の部屋の羽目板に残された弾痕から犯人の凡その身長を算定せしめてみせるのとは大いに趣を異にした推理の面白さを持っている。一体にレーンの見せるデテクションの華々しい面白味は、歴然と一方向をさしているかに見えた犯罪に一寸とした矛盾を見出して、忽ちにその方向を一変せしめたりなどの、悉くが奇術眩惑的な推理の面白さである。
 我が江戸川乱歩氏の探偵小説はバーナビイ・ロスと一脈相通じた面白味を持っている。江戸川氏の本格的作品は甲賀氏のそれよりも更に謎々式であり、挑戦的である。その形式はよし普通云われるパズル式なものでないとしても、読者に思考を強いるところの挑戦だけは大抵の場合に強く含まれている。甲賀氏のものがストーリイから来る難解味に推理的面白味を多分に持っているのに対して、江戸川氏の作は、勿論甲賀氏とは異った味わいに於てプロットの難解味に富んでいるが、それよりも、デテクションの側の論理的興味に一特色を置いていると見てよかろう。氏の作は一面に於ては一段とトリッキイであり、解決への推理も亦奇術的色彩を帯びている。江戸川氏の作は、プロットの進展に濃厚な難解味が滲み出ていて、サスペンスに富んでおり、「陰獣」の如きは就中難解味の点綴に並外れた成功を見せているものであるが、尚その上に、デテクション側の論理的興味に図抜けたものを持っている。作中主人公の疑惑と思索とはストーリイを進めて行く役目としても、謎の輪廓の説明としても、また難解感をいや増して行くためのものとしても、夫々充分成功しており、ストーリイの論理的面白味を強めて行く上に大きな働きをしているが、一方では論理そのものとして独立的にも興味深い推理が多分に織込まれている。「柘榴」にしてもそうであって、ここでも「陰獣」同様構成の論理的面白さとプロットから滲み出る難解感が強く−この点の技巧がこれはあまりに洗練されているために読者がすぐさまに作者の挑戦に応じ、作者の暗示を正しく掴み、思考をめぐらせて、真相を一歩先に抱え勝ちであるという損を招いているが−本格探偵小説のストーリイとしての推理的面白味を充分発揮している以外に、装飾的論理や解決への論理的推理が鮮かにその奇術的な面白味を浮き上らせている。作者が創り出して多くの作に活躍させた明智小五郎なる主人公は、江戸川氏の愛好する論理の面白味をよく受けついで、華々しい推理の面白味を発揮してみせている。装飾的論理、論埋的推理の面白味を多分に持っているという点から云っても江戸川氏はドイルよりもやはりポオに結びつけるべきであろう。
 江戸川氏に次いで小栗虫太郎氏がまた構成の面白味以上に解決としての論理の面白味に富む作家であろう。小栗氏の作品は圧倒的に論理的であり、装飾としての論理に溢れ、華々しい推理個所が夥しく多い。併し小栗氏の述べる論理−いままでの所その大半はかの法水麟太郎の推理であるが−にはそれ程に奇術的な面白味はない。(取扱いの上にはズバ抜けて奇術的面白味を持っているが)一体に法水麟太郎の論理は、至極お誂え向きを感じさせることが多いが、その一面、正常健全な理屈が通り過ぎていて胡麻化しの利かぬ正確さを持っている。勿論推理に正確さは生命で、正確であるに越したことはないのであるが、併し探偵小説の場合ではどちらかと云うと少々こじつけの推理の方が面白味が多いように思う。法水麟太郎が彼一流の理屈を以って不思議を解決するところには多分にこじつけめいた感じはあるが、だがその理屈そのものは多くの場合が物理化学の理であって、そこには最早胡麻化しはない。殆どが既に学問上受け入れられているところの正確な理屈(それもなまの儘といった感じのもの)である。論理、推理、だけとしてはそこに一抹の物足りなさを覚えさせるように思う。探偵小説としては、よく考えてみれば案外絶対正確さは無さそうであるが、読んでいるといかにも理屈が通っていて尤もらしい、少し誇張もはいっているが、そう云った風な推理が面白い。(ポオやフィルポッツ、バーナビイ・ロスなどいう人々のものは多少ともそうした傾向のものである)だから私は暗示に富んだ、比喩の多い推理を一層面白く感じるのであるし、探偵小説に扱われる推理は理屈が正しいばかりでは必ずしも面白いとは云えないというのも、つまりは独創的な、悪く云えば一種こじつけの推理の方がより探偵小説的であると感じているからに外ならない。大体に小栗氏の作品は、文章と云いストーリイと云い、ごく奇狂的な、こじつけめいた感じの強いところが私には大変に面白いのであるが、その感じと法水のどちらかと云えばソーンダイク風な正常正確な推理とは底の底の方で何となくピッタリしない所があるように考えられる。(一方は非常に底深く幽玄であるのに、この方は案外すぐに底がつかえる、といった様な感じでもある)それで我が小栗虫太郎氏の作の面白味は、そうした論理的推理の面白味などよりも、むしろ作者の凄じい気魄に張り切った「仰々しさ」の魅力であろうと思う。「仰々しさ」、それも私は本格探偵小説の一つの大きな魅力を作るものであると思うのだが、これは少々方向が違って来ることであるが触れないことにしよう。

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 その他、ストーリイ側の推理的興味とは別にデテクションの側の論理的興味に顕著である作を挙げるなら、ガストン・ルルウの「黄色い部屋」などもそれであろう。大胆な根本トリックを闡明して行くルレタビーユ青年の推理として述べられるところは見事である。トリックが奇術的であるように彼の推理も甚だ奇術的な面白味に富んでいる。フィルポッッの「レッド・レドメインズ」に現われるピイター・ガンス探偵の解決への論理は典型的とでも云えない程にこの方面での面白味を発揮している。ガンス探偵の推理は就中比喩の面白味が多い。犯人のからくりと青年探偵の陥っている誤りとを映画の映像とそのメカニズムに喩えて語ったり、犯人のトリックを切手や絵画や指紋などの偽造に喩えて話したりなど、それらは直接に事実を捉えての理屈よりも一段と興味が深い。またミルンの傑作「赤い家」も構成の面白さと共に探偵アントニイ・ギリンガムの推理は独立的に光っている。プロットの組立てよりも作者は恐らく主人公の推理の方により多くの興味を覚えていたことであろうと推察される。
 前の犯罪構成に論理的興味を持たせ、難解感を感じさせることが中々容易な技でなく、充分成功した作が沢山はないように、デテクションの側の論理、推理に、多くの、深い面白味を与えることも亦至難の芸であるらしい。さればこそ、一応は作者がさも理屈めいた言を吐き、尤も千万な推理を見せぴらかしはするものの、それに少しも論理的な興味が感じられず、平凡浅薄にばかり終って、ストーリイの面白味を引き立たせるどころか、全体を面白くないものにして了う如きものが驚くばかりに多いのであろう。見事な推理は一種論理の創造である。付焼刃では生れないものだと思う。

装蹄的論理或は推理の面白味

 推理の面白味は先に触れたように、何よりも先ず論理的に条理立っていることに在るが、しかしそうであれば面白いとばかりも云えない。私にはソーンダイク博士の推理よりもシャーロック・ホームズの推理の方が概して面白いし、またホームズの推理よりもポオのオーギュスト・デュパンの推理の方がどれだけ面白いか知れない。「隅の老人」の推理よりも師父ブラウンの推理は一段面白いし、またクロフツのフレンチ探偵の推理よりも「矢の家」のアノー探偵の推理の方により多くの魅力を覚える。エラリイ・クイーンよりもフイロ・ヴァンスの方が面白く、またヴァンスよりもフィルポッツの書いたピイター・ガンスやジョン・リングローズの探偵などの推理は遥かに興味深い。而もこれらの人々の推理はすべて与えられた材料より築き上げられる論理であることには変りはない。それでありながらこうして魅力の度合いをなぜ異にして来るものであろうか。一体探偵小説中探偵の行う推理のデータというものは、主として足跡とか指紋とかの物的証拠であり、アリバイや密室などといった情況証拠である。足跡や指紋に基いて築かれる推理も勿論面白い。ホームズとかソーンダイクとかがそれらに就いてこれまで面白く奇抜な推理を度々作り上げて見せてくれている。そうした外的なデータに基く推理として前に挙げたバーナビイ・ロスのドルウリイ・レーンや江戸川氏の明智小五郎、それから死んだアメリカの傑れた探偵作家ポーストの書いた主人公のそれなど、傑出した面白味を持っている。こうした偉大な先人達の見せてくれたところは実に見事であったし、こうして現在作家に輝かしい例外はありはするが、大抵の場合、そうした推理は陣腐平凡である。よし斬新ではあっても面白味には乏しい。
 足跡、指紋などといった物的証拠に較べればまだまだアリバイや密室の類いには面白い推理が行われて来ているし、今後とても奇抜な着想を得て興味ある推理は見られることではあろう。併し、私自身がこれまでに読んで来ての感想から云ってみると、最も魅惑的であった推理は多少でも心理的な色彩のあるものであった。例えば作中の探偵が、登場人物の誰かの心の動きを読もうとして思索したり、或はまた、外部的な証跡と嫌疑者の性格との間の矛盾を解き去ろうとして推理をめぐらせたり、そうした際の推理は唯足跡や指紋などだけについてめぐらされる推理などよりも、どれ程面白いかしれないように思う。探偵自身(作家自身)の思索的な性格を反映させた推理や、一見解し難い心理の持主(或はそうした心理の現われとしての行為)に結ばれた推理などの面白味を、一旦味わい知ってみるとこれまでの足跡や、指紋や、密室、アリバイなどといった物的証拠情況証拠の上にばかり組立てられた推理は甚だ物足りなく深みのないものに感じられてくるものである。ポオの書いた理論、オーギュスト・デュパンの推理には哲理もあり、心理的でもあって、それは単に条理が立っている、見方が一風変っている、非常に論理的である、というので面白いばかりでなく、詩人であると同時に数学者、哲学者、めいた彼自身の性格と共に、付焼刃でないところの深い面白味を湛えていると思う。ヴァン・ダインは彼の選集の序文で、探偵小説の新傾向を説いてから、
 「『モルグ街の殺人』の冒頭に述べられる長たらしいイントロダクションなどは近頃の探偵小説の読者にとっては凡そ繁雑なばかりであるし、最も短い『盗まれた手紙』に於てですら哲学や数学のひちむつかしい分析が長々と織込まれているが、これなども亦現今のファンには堪え難いテンポののろさを感じさせるに過ぎなかろう」
 というような意味のことを記している。この意見は彼の探偵小説論よりみて成程尤もであると頷かれはするが、しかしこれに対して私は全的の賛意は表したくはない。かかる個所こそ「モルグ街」や「盗まれた手紙」などで最も探偵小説的な推理部分、或は装飾的部分を作り出しているところの興味深い個所であるし、またヴァン・ダインがこうして厄介視している介入人物こそが、現に彼の作を装飾し、クイーンなどに立勝って面白く感じさせているものであると、私は信じている。私に云わすれば、それの難解さ、装飾的性質に於ての意味でなく、その興味の性質に於て、こうした部分はむしろ探偵小説に望ましい面白味でさえあるのだ。ドイルの短篇集「シャーロック・ホームズ」の冒険の巻頭を飾っている「ボヘミヤ王室の醜聞」というのは、丁度このポオの「盗まれた手紙」と同じように、隠されている一葉の写真を取り返そうとする奇智の物語である。ホームズの手腕は中々気が利いているが、併し作全体の探偵小説的面白味に於ては、それはポオの作には汲ぶべくもない。ポオの装飾的論理デュパンの推理がホームズによって代表されているそれよりも遥かに深みに富んでいるし、それがストーリイ全体の推理的興味を著しく高めているからである。
 フィルポッツのビイター・ガンスやリングローズなどの推理もやはりそうしたデュパン流な面白味のあるものであり、アノー探偵とかフイロ・ヴァンスなども幾分でも心理的な色彩を構えている。先にも挙げたフィルポッツの短篇「三人の死者」の最後は事件解決者の次のような教訓的言葉でもって結ばれている。

 「さしずめこの事件などは、当事者が死んで了ったりなどで他に捜査方針も立たぬ際、その者の性格を究明してみることによって犯罪動機が発見されることがあるという一例だろう。僕自身に就いて云うと、如何に状況証拠そのものが明瞭に一方向をさしているかに見える時でも、それがその人物の性格の表われと根本的に撞着している場合には、僕はそれを受入れなかったことがよくある。一体誘惑というやつは飛んでもない力で牆壁を押破ってはいって来るものである。こうして凡そ想像もつかぬような人々が突然罪を犯すことが多いものではあるが、併し原則として、若し我々がその人物の個性をハッキリと知り、これまでその人の行為がいつもどんな力で左右されて来ていたかを知ることが出来るなら、その人物の過去の業跡が示しているところと相容れないようなものはすべて疑ってかかり、反対にそれらを支持している事実は一層研究してかかる価値があるものであると断定しても、多く誤りはないものだと思う」

 この「三人の死者」という短篇はこうした性格探偵の面白味を取扱った好ましき探偵小説であるが、その推理の論拠たるものは実に興味深い。
 ヴァン・ダインの処女作「ベンスン殺人事件」では、事件の途中で、
「殺人も亦芸術である。一幅の絵画を見て専門的な鑑定家はその作者が誰であるかを云い当てるであろうように、殺人手法にも亦下手人の特異な性格が一々現われているものである。だからして探偵の仕事は犯罪手口を研究して、これと相符合する性格の持主を探し出せばよいのだ」
 というようなことを述べている。この主張は彼の諸作には相当影を投げているが、しかしもっとその点がヴァンスの主張の如くに作中に盛り込まれていたのであったら、恐らくヴァン・ダインの作品はもっと興味深いものになり得たことであろうと思う。尚、「ベンスン」では、フイロ・ヴァンスは物的証拠や情況証拠の信ずるに足らぬことを説き、心理性格の探究こそすべてを決すべきものであると主張してアルビン・ベンスンの殺害犯人を求めてみせている。これも亦主張だけにとどまって成功的ではないのであるが、その主張だけとしては、実際は知らず、探偵小説の探索推理はかかる傾向のものでありたいと思う。
(前述した探偵小説の難解味の場合にしても、単にそれが洗練された技巧の所産としてだけのものでなく、例えば登場人物の性格心理の謎などと結びついて生れている場合には、恐らくそれは一段と探偵小説的でもあり、戦慄的でもあって、効果も高く、興味深いのであろうと考えられる)

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 以上が私の見た探偵小説の二つの本格的な面白味である。勿論探偵小説の独特な面白味はまだ外に幾つかある。しかし以上に挙げたものは常に探偵小説の「根本的な魅力」を作り上げるものであると思う。主としてこうした論理的な面白味を意図した作品は実に無数といってもよい程に書かれている。いや、こうした種類の探偵小説は最早完全に行きづまっているとさえ云われている。併し考えてみるに、こうした本格な面白味に於て真に我々を満足させてくれたものは決して沢山はないようである。本格探偵小説の面白味はまだ本当には書き究められてはいないとしか思われない。多くの人々は本格探偵小説は杓子定規で少しも面白くないと云う。成程そうした感じの探偵小説は実に多い。併し私は本当に立派な探偵小説、その真髄に掘り当てた本格探偵小説というものは、決してそんなものではない筈だと信じてやまない。甚だ雑漠ながらこの小論をものした所以《ゆえん》でもある。

初出誌「ぷろふいる」1935年11月号/底本「幻影城」1977年9月号No.34


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